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呑竜仲店とは
商店街について

前橋中心市街地に残る戦後・昭和の名残

呑竜仲店とは1947年(昭和22年)に市の戦後復興計画に基づき大蓮寺墓地跡に復員者が生計をたてる事を目的に建設されました。木造2階建て・住居兼店舗の共同施設には、飲食店をはじめ雑貨、惣菜、青果、衣料品など様々な店が35軒並び、通称「呑龍マーケット」として親しまれました。前橋市は、1945年8月5日の空襲で市街地を中心に全市の22%が被災。呑竜仲店は、そんな焼け野原が広がった市に最初に現われたマーケットということもあり、戦後復興のシンボルでした。

その後、日本は高度経済成長期を迎え、物販業を営む店主たちのほとんどが手狭になった店舗を後にしました。そして、昭和35年頃より呑竜は“飲食店・飲み屋街”のイメージを色濃くしていきました。

昭和後期の火難と再建

1982年(昭和57年)1月8日、ある店舗の火の不始末から大火災となり、呑竜の23店舗(全体の約3分の2)が焼失しました。焼き出された店主たちは、職場の復活を強く望むも、当時の衛生環境を理由に一部地域住民や地主である大蓮寺側から反対意見がで土地の明け渡しを求められる裁判にまで発展しました。

しかし、当時の店主たちと常連客たちは署名運動などを行い再建に向け動きだしました。再建資金に関しては、金融機関より融資を受けるため個人商店の集まりであった商店街を事業協同組合に再編しました。そして再建資金の目途が立つと工事を断行し、翌年(1983年)12月23日には施設の規模は縮小したものの再建を果たしました。

地主との間に起こっていた裁判も、提訴から6年越しに和解が成立し1988年(昭和63年)をもって正式に「呑竜マーケット」の存続が認められました。

商店街運営の低迷と窮迫

再出発をした呑竜は賑わいを取り戻しました。しかし、2000年代初め呑竜再建でリーダーシップを取り長年協同組合の理事長を務めていた店主が亡くなると商店街に大きな変化が訪れました。

火事以前に入居していた古参店主たちが協同組合の理事長や役員職を引き継ぎましたが、業務の大部分を故人一人に頼り過ぎていた為、商店街運営は混迷を深めることになりました。商店街の取決めや資産管理が恣意的に行われることが多くなり新規出店者が定着しない環境が常態化するようになりました。途中、商店街の先導役を10年以上続いている数少ない“新参店舗”に代替わりさせる機会がありましたが、古参店主を優遇する措置や過去の不明瞭な資金繰りが正されてしまうことを理由に行わることはありませんでした。結果、商店街は窮迫していきました。

令和の役員交代と異様な変貌

2020年(コロナ禍)、役員職にあった古参店主が他店主に秘密裡なかたちでその役員名義をこれまで商店街と関わりのなかった人物たちに移してしまう事件が起こりました。名義を渡した古参店主は1名を残し廃業しました。新たな参画者は映像関係職を本業とする大手飲食店のフランチャイズオーナー、外国人向けの教育及び就学支援事業者や不動産業者であり、事業協同組合(法人格)の乗っ取りにも見える出来事でした。役員名義の取次は古参店主の客であった弁護士が行っていました。新たな参画者は役員名義を得るやいなや既存店舗への配慮や意見を聞くこともなく独断専行で商店街施設や周辺環境の改造工事を行いました。また一部既存入居者に対する新役員の不当な追出し行為が起こるようになりました。2021年、新役員と彼らと交友関係にある人物の名義で営業許可をとり雇われ店長が仕事をする店舗が数軒開業しました。

*現在、呑竜仲店は時間の積み重ねで作りあげられた風情と価値の破壊が進み、かつてないほどの異様な姿に変貌しています。新役員や一部の政治家・行政・メディア関係者は、呑竜仲店がリニューアルされ活性化していると謳っていますが、その喧伝活動は地域の生活者やこれまで商店街を利用していたお客様に向けているものではありません。どうぞ呑竜仲店にお越しになる皆様には商店街施設そのものの歴史、そこに携わってきている人たちの経緯・背景を少しでも正しく知っていただきたく思っております。

*また呑竜仲店はメディアなどを通し入居者を促していますが、物件を案内する新役員及び業務代行をする不動産会社員は空き店舗の使用履歴に不知であり、度々商店街に関して誤った情報を提供しています。紹介する物件に関しても基本的な点検補修がなされていないため居抜きを惹句している場所でも営業開始までに予想以上の時間・費用が掛かる可能性があります。新役員は商店街において店主として実働がない方々であり、店舗の使い勝手や商店街施設のインフラの知識に乏しいです。呑竜仲店での開業をお考えの方は焦らず、実際に営業店舗に話を聞くなど細かな情報収集を行うことを強くお勧めします。

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